敷地内
薬師堂
薬師堂は浄土寺の本堂です。1197(建久8)年に上棟しましたが、焼失により室町時代の1517(永正14)年に再建されています。浄土堂と全く同じ規模ですが、純粋な大仏様は失われ、和様、禅宗様などの建築技法が混在した折衷式の建物となっています。薬師堂の本尊は、外陣(げじん)と内陣(ないじん)に別れています。内陣には、檜皮葺(ひわだぶき)の「宮殿(くうでん)」があり、薬師三尊、日光菩薩、月光菩薩が収められています。
現生と来世を、表現した境内
敷地内には、西に来世(西方極楽浄土)を表す浄土堂と、東に現世(東方浄瑠璃世界)表す薬師堂があります。境内の中央にある道は「三途の川」を表現していると言われています。
八幡神社
創建時にまつられた浄土寺の鎮守社です。前に拝殿、後ろに本殿があり、共に国の重要文化財となっています。本殿は、室町時代後期の特徴をとどめた檜皮葺の三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の建物で、花木や鳥などを配した写実的な蟇股にその時代の特徴がよくあらわれています。拝殿は大きな割拝殿で、天井を張らず、貫、肘木などの組み物に大仏様が取り入れられており、和様と大仏様が混在する折衷様式となっています。拝殿前の狛犬は、参拝者に「かわいい」と撮影スポットとして人気です。
四国八十八ヶ所霊場
浄土寺の裏山には、四国・八十八ケ所めぐりの林道があり、江戸時代に作られた祠を見ることができます。初夏の季節には、色とりどりのあじさいが散策道一面に鮮やかに彩ります。
浄土寺を作った重源上人(ちょうげんしょうにん)と
仏師快慶(ぶっしかいけい)
重源上人
重源は、平安時代から鎌倉時代の僧で、六十一歳の時、戦火で焼失した東大寺を再建する責任者「勧進職(かんじんしき)」となります。浄土寺は、東大寺を再建するための拠点として、全国に作られた七ヶ所の別所の一つです。当時は播磨国大部荘(はりまのくにおおべのしょう)といい、東大寺領でした。中国の宋に三回も渡ったとされる重源は、当時の最新技術を身につけていました。大部荘を訪れた重源は、寺の建立だけではなく、道路を造ったり、橋を架けたり、港の改修など、荒廃していたこの地を再興します。その業績は、 鹿野ヶ原を一夜で開墾したとされる「鞍掛け松」や「一鍬掘り」、「にごり池」などの伝承が残されています。快慶
鎌倉時代に活躍した名仏師。熱心な阿弥陀信仰者として知られています。本尊の阿弥陀如来及び両脇侍立像は、中国の宋時代に描かれた仏画を見て作成したとされ、本尊の両手の上げ下げや脇侍の観音立像と勢至立像の立ち位置など、他の日本の仏像と比べ逆となっています。観光ボランティアガイド
小野ガイドひまわり(要申込)
小野市の魅力を多くの方に知っていただくために歴史・文化をまごころ込めてガイドいたします。
- 案内場所
- 国宝浄土寺、金鑵城遺跡広場、
広渡廃寺跡歴史公園、小野市立好古館